耀変天目 

ただただ楽しく愉しく

官能 と 劣情

アニメや漫画は日本に誇る文化。

 

その通りだと思っています。

 

鳥獣戯画から始まり

北斎漫画 や 高橋留美子 さんやスタジオ ジブリ などなど。

 

素晴らしい作品や作家さんたちからの系譜、誇りたいモノの一つ。

 

 

しかしながら

ここにおいても扇情的に性的な表現を良しと勘違いをしている作品は多く存在していて…。

 

表現の自由といえばそれまでですが…。

 

表現したいから作られた作品と

人に注目して欲しいから選択したという違い。

 

 

時折、疲れ果はててしまい迷子になる。

 

 

不勉強を才能に

置き換えた作品は鑑賞する側からしては残酷なレース。(マルセルデュシャンとは全く違う)

 

そういうものを数多く鑑賞していると疲れてきてしまって。

 

 

均一 と 平等 は 異なるし…ん…。

色々感じるけどそれも含めての鑑賞でもあるので。

 

 

そのことに気づきがない表現者

となってしまうのは 勿体ないと思ってしまう方の人間ではある。

 

 

 

アスリートは勝ち負けがあり

負けを悔しく思わなくなったら成長はないと言われる世界

 

表現者も同じ

 

闘いと表現するしかないほどの刹那の存在というのか切実さ

 

そういうモノを刹那にまで昇華されたモノに出会うと自然と拝し理解につとめたくなる。

 

 

『真』『善』『美』 ※順不同

 

 

評価されたいの『評価の内容』が分からないであれば、精神的退行であり、業界全体としてはかなり残念なことで…。

 

…幼稚。

 

 

しかしそれは

観る側として責任があると思ってて

 

 

興行的な部分も含まれなければ

存在もさせてもらえない現実も踏まえてしても

 

 

そこのところの境界は表現者だけではなく興行主や観る側、買う側に責任があると思っている。

 

それとともに

 

見る側が劣情、扇情的に反射的に好き嫌い癒しや慰撫、カタルシスを求めての見方だけではなくて

広義や体系を踏まえながら知り味わう愉しみ方を持てる社会が

 

成熟した社会なのではないだろうか?

 

精神的な成熟が置き去りなように昨今の風潮に感じている。

 

 

劣情に訴えているものなのか官能なのか

の違いが分かるぐらいの器は作っていたい。

 

 

 

余談として

 

本来の使われて方が、物物交換や換金的な意味をのせられ

序列をつけられていたりするものも

少なくはない。

 

官能やセクシャリティとは

生命讃美を意味しているのだけれど…。

 

 

それほど

劣情としての理解が何らかの理由から

されてきたのだなぁと…。

 

 

「働け、働け」「産めよ、増やせよ」

……なぜ??