『無償の愛』
マザーテレサに出会う前まで
私にとっての
『愛』とは甘やかな甘美に溢れた何か
でした。
流行歌 や 創作の中に存在し
結婚が一つの結実の形のあれ。だったり
母の行為だったり…。
母というのは賢明で
無償の愛に溢れその熱情を持って私たちの成長に貢献してくれる自己献身の見本みたいな生き方。
しかし
その賢明さにありがたく思いながらも
どこか息苦しさを感じ続けながら『ご恩』でしばられていく仕組み…。
そんな誤解と幻想が『無償の愛』の周辺は溢れていて
ある人にとっては尽きせぬ泉として解釈され
ある人にとっては自己価値の承認として利用したりで
関係性を縛りあげる縄として使われています。
『無償の愛』えっ?無理ー!
で正解です。
これをとやかく言ってきたり、押し付けてくる人がいたら『間に合ってます。』としてください。
『奉仕』
とは誰からの承認をも必要としないけれど人知れずやってしまうしやっていることで、自分の心から生まれる行いのことです。
仏教では『発心』
といい
自発的な行いを尊びます。
対価価値として、取引として、行うものではありません。
やっても良いけど、恐らくはつながらないし、続かない。
『無償の愛』
マリア像や母がよく理想として語られるでしょうが
生命の為に身体を明け渡したただ
その事をして『無償の愛』。
そのあとは
ご自分の酔いたい幻想のためにさまざまなストーリーを自ら選択しているだけ。
現在、子を持つ、持たないの間に
優劣をつけるのは
男性『性』優位型の社会体制の維持、不信をもとにしてあるのでいくら自己犠牲をしても報いはありません。
真の愛の有り様というのであれば
それは
遠慮なくNOが言いあえる関係性にあるのではないでしょうか。
先日記した
源氏物語、女三の宮は
誰かの思いを図ったり差し引きしたり取り引きといった下賤に染まる必要性が皆目ない人
家父長制根強い社会は
さまざまな場所に
利益享受のために歪められ女性に不利な解釈が入りこみ
序列などによって縛され裁かれる仕組みがつくられていて
女性の性や献身は搾取されています。
そしてまたその社会で母であることは女を生に縛り付け有用感を得る最大の理由であって女性にとってパワーゲームの勝者で簡単には手放せないのも一つの我欲。
彼女の選択はそのこと
その仕組み全てにNOを突きつけているように思えてなりません。
とりあえず
行動を伴わない『奉仕』や『愛』を
口にする人には、『見本』をお願いすると良いかも知れません。
教えは説く必要もなく
ともに歩む『行為』が肝要です。
少しばかりですが
学んだことをここに記すことで共有いたします。
今日から9月改まりました。
今日も良き日となりますように。