耀変天目 

ただただ楽しく愉しく

大きな私

小さな私の物語りは

比較的理解されやすく 支援につながりやすい ところがあります

 

特に

公平性 や 平等である という 社会的良識という教えが

隅々まで行き届いていて

よくも悪くも

「和を持って尊しとなし」は日本国家の礎の教えとして今も健在です

 

それを目指すのであれば

ワタシという自我は不必要もしくは邪魔なものとして

認識されてしまいやすいかも知れませんね

 

隣の子より大きな自分として集団の中で位置付けられた子や

生まれ落ちた生家の事情と別に学校教育で発見される才能

そういうものを持った子どもたちは

 

「大きな自分」を持て余してしまい

両親を救うためにと 罪悪感をもち その才能を封じるか

その期待に応えるために内発的に生じた欲望とは違う自分を周囲のために

演じていくようになります

 

自分を犠牲にして

「家族」を「イエ」を守るために

(この場合の家族やイエは 生家のみを意味しません)

 

大きな自分を持て余している 子どもは多くいますが

成績優秀児には 関心は向きにくく 

支援が必要とは言いがたい状況に追い込まれてしまいます

(親の親が役割となってしまう絡繰でもあります)

 

大変な大人のために

自分を後回しにする優しさから発生して

 

そうするうち

自分を大切にするためにある自我を無視し始め

他者の願望を叶えることを 

自己実現としてしまう生き方を身につけてしまうのです

 

生きていくための戦略

「水」が文字で思い浮かんでしまう脳の出来上がりです

 

そうして生きても 必ず出逢うものが「マサカ」

 

「助けて」が言える 

自分の感性 を守ることができる環境を

社会の入り口である家庭

家庭の入り口である パートナーシップから 意識して築いていけると

 

そして

その実りとして成立した社会は

親愛と信頼と親密感にあふれた 

温もりある社会となるのではと思っています

 

子ども も パートナーも 

いつか必ず創造主の元へ還る日がやってきます

その在り方に

悲喜交交させられているだけの私に気がついたとき

不思議と今おかれている環境に感謝の心が生まれてきます  合掌